讃岐の国、いまの香川県に生まれた弘法大師空海。幼名を真魚(まお)といいました。
真魚は都に出て大学に入学。学問に励みますが、あるとき、「だれも風をつなぎとめることはできないように、だれがわたしの出家をつなぎとめることができようか」と、僧の道を歩みはじめます。
私費の留学僧として
遣唐使船にて唐へ
延暦16年、797年、12月1日。24歳になった弘法大師空海は、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を書き上げました。のちに改定し『三教指帰(さんごうしいき)』といわれるものです。そのなかで、儒教、道教、仏教を比較して、仏教がどのように優れているかを解き明かし、真の仏教を求めて僧として歩みだすことを宣言します。
重要文化財 弘法大師行状絵詞 第3巻(渡海入唐) 南北朝時代
それから7年間、四国や和歌山で山岳修行を行い、奈良などの寺院で仏教を学びました。その修行中、久米寺の東塔に納められていた密教の経典、『大日経』と出会いました。この密教の教えを深く理解するには、文字や言葉では伝えられないものを、師より学ばなければなりませんでした。
そこで、弘法大師空海は、師を求め唐に行くことを決意。延暦23年、804年、私費の留学僧として遣唐使船に乗り込みました。26年ぶりに出航された遣唐使船には、偶然にも、桓武天皇により派遣された伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が乗船していました。
地位も待遇もまったく異なる弘法大師空海と伝教大師最澄。後に、平安の二大仏教、真言宗と天台宗の開祖となる二人の出会いでした。弘法大師空海が31歳のときのことです。
師、恵果(けいか)との
出会い、そして別れ
延暦23年、804年、12月、弘法大師空海は唐の都、長安に入りました。この都で弘法大師空海は、密教の理解に必要なサンスクリット語などを学びながら、最新の知識や技術を吸収していきました。
およそ半年たった初夏のこと。弘法大師空海は、唐の国師であり、正統な密教を受け継いだ僧、恵果がいる青龍寺(せいりゅうじ)を訪ねました。恵果(けいか)は会うなり、「われ先より汝の来れるのを知り、相待つこと久し」と告げたといいます。
まもなく、弘法大師空海は、胎蔵界(たいぞうかい)、金剛界(こんごうかい)、そして正統な密教の師となる伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂(かんじょう)を受けて、真言密教の第八祖となりました。灌頂名は、遍照金剛(へんじょうこんごう)。
それとともに、恵果は、宮廷画家の李真(りしん)などに曼荼羅を描かせ、五鈷杵(ごこしょ)、五鈷鈴(ごこれい)、金剛盤(こんごうばん)という密教法具、経典、犍陀穀糸袈裟(けんだこくしのけさ)、仏舎利80粒などを弘法大師空海に授けました。
国宝 海賦蒔絵袈裟箱 平安時代
国宝 犍陀穀糸袈裟 平安時代
そして、出会って6ヶ月後、真言第七祖、恵果は静かにご入滅になりました。
このとき授かった密教法具は、現在も後七日御修法(ごしちにちみしほ)で使われ、犍陀穀糸袈裟も寺宝として残り、仏舎利は、生身供(しょうじんく)の法要で用い、お舎利さんと呼ばれ親しまれています。
国宝 金銅密教法具 唐時代
請来目録(しょうらいもくろく)を
朝廷に提出
正統な密教の師となった弘法大師空海は、入唐から2年後、膨大な経典や仏画を持って帰国しました。さきに唐より戻っていた伝教大師最澄は、弘法大師空海が朝廷に出した『請来目録』を見て、密教のほぼすべてが日本へ伝授されたことを知りました。経典類だけでも216部461巻、両界曼荼羅(りょうかいまんだら)などの図像を10軸、密教法具などが記されていました。
異国の香りを含んだ密教という新しい教えは、朝廷内の人々の間に広まり、最大の関心事となりました。
弘法大師空海は、桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇の信任を得て親交を深めていきます。伝教大師最澄とも、交友を深めていきました。
その後、東大寺の別当、乙訓寺の別当などを経て、弘仁7年、816年、修禅の道場を高野山に建立したいという旨を朝廷に願い出ました。唐より帰国して10年が経ったときのことです。
国宝 弘法大師尺牘(こうぼうだいしせきとく)
〔風信帖(ふうしんじょう)〕 平安時代
東寺の寺宝である国宝の「風信帖(ふうしんじょう)」は、弘法大師空海が伝教大師最澄に送った手紙です。
「東寺をながく空海に
給預(きゅうよ)する」
弘法大師空海が修築工事を指揮した
香川県の満濃池
いまも悠々と水をたたえている
弘法大師空海は、決壊を繰り返し人々を苦しめていた満濃池の修築工事を完成させ、翌年には、東大寺に灌頂道場真言院を建立しました。
そして、弘仁14年、823年1月19日。嵯峨天皇は、官寺だった東寺を弘法大師空海に託しました。弘法大師空海50歳のできごとです。
『御遺告(ごゆいごう)』のなかには、このときの心情が、「歓喜にたえず、秘密道場となす」と記されています。
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弘法大師空海は、東寺を真言密教の根本道場と位置づけました。講堂、五重塔の工事に着手する一方、東寺から東に歩いて数分の場所に、一般の人々を対象とした私設の学校、綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)を設立します。
この開校にあたり弘法大師空海は、「物の興廃は必ず人による。人の昇沈は定めて道にあり」と述べています。「物が興隆するか荒廃するかは、人々が力を合わせ、志を同じくするかしないかにかかっている。善心によって栄達に昇るか、悪心によって罪悪の淵に沈むかは、道を学ぶか学ばざるかにかかっている」と、教育の必要性を語っています。
身は高野(たかの)、
心は東寺に納めおく
高野山の風景
東寺の御詠歌(ごえいか)に、「身は高野、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」というものがあります。
この御詠歌のとおり、弘法大師空海は、東寺に住房を構え、ここで、東寺の造営という大事業と並行して、高野山に壮大な伽藍の建立を進めていました。都にある東寺を密教の根本道場に、高野山を修禅道場とする計画でした。
弘法大師空海は修行者を「これ国の宝、民のかけ橋なり」といっています。密教にとって修行者を育てる場は必要不可欠なものでした。弟子たちは東寺の造営と高野山での道場の建築を進めていました。天長9年、832年、ついに、高野山に金堂が完成、8月には、万灯会(まんどうえ)が行われました。
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承和元年、834年、弘法大師空海は朝廷に「宮中真言院の正月の御修法(みしほ)の奏状(そうじょう)」を提出しました。
そして承和2年、835年を迎えます。弘法大師空海は、宮中真言院において、鎮護国家、五穀豊穰、国土豊穰を祈る後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行います。その後、およそ十数年過ごし住み慣れた東寺をあとにします。
高野山の風景
高野山にようやく春が訪れようとしている旧暦の3月21日、弘法大師空海は、弟子たちの読経のなか、ご入定(にゅうじょう)になりました。